いくつもの「あの日」から生まれた 私たちの「いま」と「これから」
東日本大震災直後に宮城を訪れた今村彩子監督が抱いたのは「耳のきこえない人たちが置かれている状況を知ってほしい」という痛切な思いだった。あれから10年---。手話言語条例の制定が進み、知事の会見に手話通訳がついたり、一部の市町村では役所や公共施設に手話通訳が配置されたりするようになった。日本各地で起こった様々な災害現場でも、手話で会話ができる福祉避難所や、絵や文字による情報保障、そして、ろう・難聴者による災害ボランティアなど、これまで見られなかった新しい動きが生まれていた。2013年に『架け橋 きこえなかった3.11』を発表した今村監督は、現在も宮城に通い、熊本地震、西日本豪雨、新型コロナウイルスの流行といった困難の渦中にいる耳のきこえない人たちの姿を記録し続けている。みんなが安心して暮らせるその日まで---。今村監督がみつめた、耳のきこえない人たちと災害、その10年の記録。
そばにいる人と、人として、つながること。
気恥ずかしくなるほどに素朴で、なにをわざわざ、と思ってしまう。
けれどもそのシンプルなことが、コミュニケーションの壁が立ちはだかる 聴覚障害をもつ者たちには存外な困難ととなる。日常的に関わらぬかぎり、 いつまでも「施しが必要な聴覚障害者」であり、フラットな関係に立つ 「人」としての関わりにはなりえない。
それでも私たちは「聴覚障害者」ではない。それは私という人間についてくるほんの一部にすぎない。
私という人間を見つめてもらうことが、ひいては、いざというそのときの 大きな助けとなるのだと教えてくれる。